残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

高齢化社会とエイジレス

「エイジレスの法理」の中の『高齢化社会と企業経営』(1991年7月)中の「高齢化社会とエイジレス」の文章でも、沼正也先生は、最初に国民と市民との区別から説明されます。


私どもは日本国家の構成員である日本国民であるとともに日本国家の領土のうえに展開せしめられ日本国家により運営されている市民社会の構成員たる市民として、だれかれと問わない市民相互間で日常生活を営んでいます。
封建社会の正反対の構成をとる社会が、市民社会なのです。歴史家は、封建社会が滅びて市民社会が取って替わったと、フランス革命前の社会とフランス革命によってもたらされた新しい社会の対比をこのような表現でしているのです。こうして近代になって生まれてきた市民社会の構成員を“市民”と学者は名づけてきましたが、“市民”のもつ非封建的・市民的属性すなわち自然的属性に対立する非自然的=理念的属性は、万人に独立(たがいに切り離されている性質)・平等(あらゆる差別のないという性質)・自由(他者から一方的拘束を受けることがないという性質)という諸性質を不可避に付与せしめる理屈となります。市民社会の構成員たる市民は、この性質の現実的付与を要求しえられる法的地位をもつものたらしめられるわけなのです。


そして、現実に独立・平等・自由の帯有者ならば国家といえどもその人に干渉することが許されないといういわゆる自由権を、もし現実に独立・平等・自由の帯有者でないならば国家よじぶんに現実の独立・平等・自由を与えよという生存権を、もつものたらしめられてあるのです。この両種の地位=権利を合わせて基本的人権(略して人権)というわけです。


次に、いよいよ高齢化社会とエイジレスについての理論的考察です。

年齢も自然的属性ですから、市民社会の舞台上で年齢が問われたり年齢を区分して一定年齢以上の者に特別な差別を加えることは認容しえない理屈です。もし高齢者にして特別な意味づけをあえてしなければならない場合はといえば、もういうまでもなく、要保護性の現実帯有を契機としてです。雇用における定年設定のごときは反市民社会的で、定年制度を設けることによって、むしろ、高齢者ないし高齢者予備軍をして要保護者のグループに突き落としているものと規定して不可ありません。
かつては、多くの国ぐににおけると等しく定年制を置くという試行錯誤を犯すことに例外でなかったアメリカが、こんにち現段階にあっては定年制を廃止するにいたっているこの側面での先端的な市民社会となりえています。働く意思がありその能力がある者が高年齢を理由に強制退職させられるのは、許されるべきではないとくものでした。特定年齢に達した者の給料減額、特定年齢以下の者に限定する募集広告も不認容とするものなのです。


かくては、よぼよぼのじい様やばあ様をかかえ込んで市民社会の理念と討ち死にするばかりだと評されそうですが、市民社会の理論は現実独立・平等・自由でない要保護状態になっている者については無条件原理が働き自然的属性の捨象からもの無条件において職場を去らさせ高齢者福祉年金支給の対象とするということになり、形式的に定年年齢を設定することによって職場を奪い要保護者に転落せしめることは正道ではありえないことを地で行っているのです。


まとめると、米欧わけてもアメリカでは定年制の設定は許されないこと、だからといって足腰立たぬ要介護老齢者が職場にしかみついているに任せているわけではないこと、体力に限界を感じるシニア・シティズンは自発的に職場を辞し年金生活者に投じ、年金支給が停止されない限度におけるパートタイムの職務に就いてそこに新たな生活の楽しみを求めんとするのがむしろ一般的な動向であることについて摘記しておきます。
欧米におけるいわゆるシルバー産業の着眼点は、こうしたなお健常の状態におけるシニア・シチズンの退職者にあったという歴史があります。かれらはパート・タイマーの気ままさをむしろ選んだ概していって金持ち・時間持ちであるからのターゲットだったのです。老いてなお職場にしがみついているような人びとには、金はあっても時間がない。他方、非健常・要介護によって退職した者の特殊需要品については、私企業の参入がとかく第一次元なシェアたりえず、付加的対象たるに止まるものであろうことは見やすい理というものだからです。


最後に、沼先生は1950年代の半ばのころに、「給付は国家が、世話は私人が」という語でその理解を標語化されました。高齢化がますます深刻化した現在、先生の指摘した方向は米欧でますます定着化し、または在宅介護をもって高齢者保護の基本方針となされるまでにいたり、この方針ないし基本原則を援護・補足するものとして短期間入所やデイサービス等の制度・施設も、収容保護やむをえない重篤者のための老人ホームと並び、整備されつつあるのです、と結んでおられます。