残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

セックスレス・エイジ(性差別禁止時代)からエイジレス・エイジ(年齢差別禁止時代)へ

沼正也先生の著作『エイジレスの法理』中の、「21世紀に向けて」は1992年5月10日に書かれている。

そこでは大学を出て半世紀を振り返っている。先生の前後2回の応召は二等兵で入隊し二等兵で帰還し、「封建遺制なお根強い時代に大学生活を迎えたぼくにとりついたテーマは、封建社会の完全否定態下の法体系とそこにおける法規制はどのようなものとなるのかだった」と述べている。続けて、「封建社会の否定態は、すなわち市民社会というものだと思った。市民社会は理念態だから、一歩一歩より完全な形態に正夢化さすべきものだ。現在目のまえにある社会が市民社会そのもの、として捉えてはならないと思った」。そして、「市民社会の基礎法としての民法は、フランス革命後のフランスで初めて呱々の声をあげたものすなわち民法は近代の所産で、非歴史的な人類の日常生活の法などというものではないと悟った。市民社会の構成員は、国民という概念から区別された市民。市民は一人残らず、現実独立・平等・自由に達していない不完全者は、いかなる“条件”をも付することなくさいごの一人までをも完全独立人に高めねばならない。市民社会の基礎法たる民法は、そんな最基本的な構造をしていなければいけないと勝手にそう規定した。現実独立人同士の対抗し合う領域が財産法、非独立人の不完全性を“無条件”に補完する領域が親族法=家族法だと。」


次に、沼先生はセックスレス時代とエイジレス時代について説明している。「1975年の国際婦人年がこの国の遅れをとった“両性の本質的平等時代”の正夢化に発破をかけ、性差別撤廃条例の批准も昭和60年(1985年)にようやく成し遂げ、男女雇用機会均等法をも日の目を見させることになった。21世紀へのあと十年弱はセックスレス時代に有終の美を飾らしめる期間として残されてあり、先進諸国のあとを追って、この国も21世紀の初めにはれっきとしたエイジレス・エイジの仲間入りをせざるをえなく迫られている。だというのに日本では、高齢化社会の顕著な到来におびえて貧弱な年金制度の少しばかりの整備を進めたばかりだ。雇用の面での動きには、なんの変哲もない。どの職場からも、中高年層は締め出されたままの当然視である。」


では、このエイジレス・エイジに対応するにはどうするのか? 沼先生は述べる。「欧米では21世紀を迎えるまえに、高齢化社会の幕開けをし、21世紀初頭はもう抜きがたいまでのエイジレス・エイジのさなかにその身を置く。このエイジレス・エイジの諸施策の先取りをしているのも、アメリカである。1980年代に入ってからだから日はまだ浅いが、一連のエイジ・ディスクリミネイション(差別的取扱)廃棄に本腰を入れ、その雇用問題の側面では1986年の雇用者年齢制限禁止法の制定がすごい。雇用者の定年年齢をしだいに高めていって70歳まで高めたところで、いかなる年齢制限をすることも禁止となったのである。」「だからといって、どの職場も老人で充満するようになったわけではない。働くだけが生きがいではないアメリカの市民たちは、体力の限界もじぶんで判断してさっさといままでの職場を捨てパートなどで家計の不足分を埋めての年金生活に結構人生をエンジョイするのが一般だという。」
沼先生は大学を出て当時恩給金庫に勤務、「ここでシニアや廃疾者らの保護法の現実と市民社会法的諸施策の構築に成果をあげえたが、不覚にも雇用におけるエイジレスに到達することができなかった」と回顧している。


私(吉田)は大学卒業後、川崎市社会福祉協議会に就職し、中原区でボランティア・地域福祉事業にかかわり、1987年(昭和62年)に川崎市から受託したホームヘルパー派遣事業のコーディネーターとなった。その職場は1年半で燃え尽き、その後は社会福祉から離れ、1997年(平成9年)に岡山に戻り、2000年(平成12年)からまた医療事務から介護(ガイドヘルパーやデイサービス)・社会福祉(刑務所社会福祉士、地域生活定着支援センター相談員、更生保護施設薬物担当)を経て、現在はサ高住の当直パートとして働いている。