2011年に発行された角川春樹著「震災句集 白い戦場」を購入しました。
角川さんの句集は、獄中俳句「海鼠の日」と「JAPAN」を持っているのですが、急に、読みたくなって、この本と魂の一行詩・自選100「地果て 海尽きるまで」を取り寄せました。
角川さんの俳句が魅力的なのは、すべての俳句が剛速球で投げているところだと感じています。その俳句が捕手(受け手)のミットに収まったとき、私が捕手であってもバッターであっても、もう脱帽しかない爽快さがあります。
そのことは、本人が「あとがき」で詩歌について次のように書かれています。
日本文化の根底にあるのは、紛れもなく詩歌である。詩歌の語源は神と人に「訴える」ことに由来する。更にウル言語に遡れば「ものを撃つ」という行為である。神の前で演じられる音楽や祝詞も、この撃つという行為から出発する。転じて「人の心を撃つ」言葉が、詩歌として発展してゆくのである。
しかし、現代の詩歌に、果して「人の心を撃つ」或いは「訴える」だけの力があるのだろうか。今、現実として存在するのは、半径50センチの「盆栽俳句」と「盆栽短歌」だけである。現代俳句であろうが、現代短歌であろうが、人の心を撃ち、訴える力を持つのは抒情詩だけであろう。その抒情詩とは、詠み手と読み手が共振れを起こす感動以外にはない。
しかし、現代の俳句結社誌と総合誌が論じているのは、俳句上達法の技術論のみである。技術とは、人を感心させるが、人を感動させることはできない。
こう言えば、尾崎放哉しかり、種田山頭火しかり、角川春樹しかり、最終的にはその人の生き方と素質に依拠するのであろうが、私も、感性だけは、それに近づきたいものである。
最後に、帯に書かれていた「自選十句」を書き留めておきます。
なゐふるや飢餓列島の吹雪ゐる
にんげんの鱗の乾く震災忌
地震(ない)狂ふ荒地に詩歌立ち上がる
白い戦場となるフクシマの忌なりけり
今日生きて今日の花見るいのちかな
慟哭のこゑ天にある桜かな
瓦礫より詩の立ち上がる夕立(ゆだち)かな
ヒロシマの一樹余さず蝉時雨
ざぶざぶと昼が朽ちゆく長崎忌
八月の海にいのちの帆を上げよ