残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

ザルに水を汲む

松本善之助氏の「合本ほつま(覆刻版)」(発行所:日本翻訳センター)に、松本氏が昭和46年に発行したパンフレットのはじめの「ザルに水を汲む」という短文が掲載されている。「無人の荒野を文字通り血の汗を流しながら私は歩いてきた」と述べた本人が、「いま読み返しても、私のホツマに対する率直な気持ちは変わらない。思えばこのパンフレットから自然に月刊ほつまを出すようになっていったのである」と書いている。その短文を以下に書き留めておきたい。

ホツマ・ツタへを発見してから、既に4年になる。だが、全体の3分の1をようやく読んだに過ぎない。正に牛歩遅々たりである。しかし、一度知りえた醍醐味は、忘れようにも忘れられない。何でもそうだが、自分でいいと思へば、人にも知らせ一緒にやらうと勧めたくなるのは人情である。しかし、人を誘はうとすれば、多少の効能書を並べなくては、相手にとって何のことか解らない。ところが、これが難しい。玄米はいいと云ったとて、所詮、食べた者でなくては、その味はわからない。百万遍ゴタクを並べたとて食べない者は食べないのである。ましてや、事は神様に関してである。神武天皇様前後から、さらに古代の事柄を研究しようといふのである。よほど、趣味のあるもの者でなくては、初めから話にはならない。私自身あんまり難しい事は学者にまかせて、その料理してくれたものをご馳走になればいいと思ってゐたが、どうもそういふ訳にもいかないらしい。その理由を説明するのは、これまた、ややこしい。しかし、体験者には解るといふ意味では、前記、玄米の例と同じである。

ガリレオは、地球の方が動いてゐる云って、迫害はその遺骸にまで及んだ。今のご時世だから、我々は、まさか、そんなことにはならないだろうが、これが戦前だったら、まさに網走で、一生を棒にふったかもしれない。それほどに、この書物は反体制的である。戦争に負けなかったら、この古典は、まだまだ地中深く潜んでゐて、我々ごとき、とてもお目にかかることはなかっただろう。

古事記日本書紀も、古代の日本を明らかにしようと努めてはゐた。しかし、その

ネタ本がまづかったから、ギクシャクしたものになってしまった。そのネタ本といふのは、神代文字で書かれたホツマ・ツタヘを、聖徳太子ごろ、漢ごころで取捨し、漢字漢文体に翻訳したり、翻案したりしてできたものなのである。虚心坦懐、ホツマ・ツタヘを繙くなら、このことは歴然として疑う余地はない。4年間かけて、この3行のことだけははっきりした。このことにビックリする者なら、ホツマ・ツタヘへは関心の的とならうし、何にも感じない者にとっては、三文の値打もない。我々にとって、このネタ本説は収獲ではあったが、ここで腰を下してしまふ訳にはいかない。これから先こそが本題だからである。ところが、その道は、深くて見当もつかない。公案が通る予測は、まだ掴めないが、できるのは、ザルに水を汲むことだけである。