残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

愛の讃歌としての経済

浜矩子著「愛の讃歌としての経済」2022年、かもがわ出版の紹介です。

アダム・スミスの「道徳感情論」と「国富論」についての記載がありました。

道徳感情論」は「国富論」のバックボーンになっています。アダム・スミスは「道徳感情論」を通じて人間的本質に関する認識を形成しており、この認識に基づいて人間の経済活動の解析に踏み込んだのが「国富論」です。「道徳感情論」初版刊行は1759年(36歳時)、「国富論」は1776年刊行です。

浜さんは、「道徳感情論」という日本語の訳は?と言われています。原題はA Theory of Moral Sentimentsですが、邦訳は「道徳的感性というものに関する一理論」が近く、道徳的な感性というものの根底に何があるのかを追求する一理論という意味です。そして、その冒頭部分を次のように翻訳しています。

いかに利己的な人間においても、その天性の中には、彼をして他者の運命に関心を抱かせる原理が明らかに備わっている。この原理が作用するので、他者の幸福は彼にとって必需品となる。それを見た時の喜び。それ以外には何ら見返りがなくても、彼は他者の幸福を必要とする。このように作用するのが、憐れみあるいは同情だ。他者の惨めさを目の当たりにした時、あるいはそれを生々しくイメージせざるを得ない場面において、我々は憐れみある同情の感情を抱く。我々は他者の悲しみを見て悲しむ。この力学はあまりにも明確なもので、敢えて例証するまでもない。この感情の力学は、人間の天性に内在する他の全ての本源的情念がそうであるように、なにも、高潔で心優しい人々だけに固有のものではない。そのような人であればあるほど、至高の感受性をもってこの感情の力学を味わう。そのようには言えそうだ。だが、いかにとてつもない悪漢であろうと、いかに筋金入りの反社会的人間であろうと、他者の悲しみを見て悲しむ感性を全く持ち合わせていないわけではない。

そして、ここで浜さんは考える。「いかに利己的な人間においても、その天性の中には、彼をして他者の運命に関心を抱かせる原理が明らかに備わっている。」 これは本当だろうか? あまりに性善説的過ぎないだろうか? この辺はどう解釈したものかと悩み、次の結論を出している。

「愛に裏打ちされた共感性、すなわち道徳的感性を持ち合わせていない者たちは人間でゃない。先生(アダム・スミス)はそう言われているのである。」「人間が人間である限り、どんな悪党でも、そこには愛がある。愛の片鱗も痕跡も見当たらないなら、そこにいるのは人間ではない。人間の皮を被った魔物だ。先生(アダム・スミス)は、そうおっしゃっているわけだ。」

ガッテン、ガッテン、ガッテン! 納得の結論です! だから、浜さんは迷うことなく、アホノミクスの大将、スカのミクス親爺、アホダノミクス男と迷わず言えるんだと!

次に浜さんは、「国富論」の「見えざる手」についての誤解を解いています。この言葉(見えざる手)は「国富論」の第4編第2章の第9段に登場するが、ここだけに一回しか登場しないとのこと。該当箇所には次のように書かれている。

だいたいにおいて、人は公共の利益の推進を意図しているわけではない。自分がどれほど公共の利益を推進しているかを、知っているわけではない。人が外国産業よりも国内産業を支持することを好むとすれば、それは自分の身の安泰のためのみだ。そして、その国内産業の生産が最大化する方向にその産業を誘導するとすれば、それはもっぱら自分の利益のためだ。かくして、多くの場合にそうであるように、人は見えざる手に導かれて自分の意図の中にはなかった効果をもたらすことになる。さらに言えば、人が公共の利益を意図していないことが、社会にとって常に悪いことだとは限らない。しばしば、人は自分の利益のみを追求している時の方が、社会全体の利益増進にその気になって取り組んでいる場合より、効果的に公益の拡充を実現している。公益のために商売をしているポーズをとっている連中が、何か良いことを成し遂げた事例を私は知らない。そもそも、そんなポーズをとる商人はさほど多くないし、彼らにそれを止めさせるために決して多言は要しない。

これについて、浜さんは次のように説明しています。ここで先生(アダム・スミス)が言っているのは、人々が自分の利益を追求して行動していても、その結果として公共の利益が実現するということである。

なぜそうなるのか? 「見えざる手」が働くのは、そこに共感性があるからです。彼らは他者の歓喜歓喜し、他者の嘆きを嘆く。この点を「道徳感情論」で確立したから、「国富論」で論じられている人々も、この原理に従って行動していることになる。もしも、この原理に従って動いていない何者かがそこにいるとすれば、それは人間ではない。彼らは「見えざる手」論の対象にはならかない。

そして、最後に浜さんは次のように結んでいる。「見えざる手」を語りながら、スミス先生が本当に語りたかったのは、実は「見える手」だったのではないか。人々が「見えざる手」に導かれている以上、何らかの「見える手」が介在して人々の行動を制約したり誘導したりする必要はない。必要ないどころか害悪を及ぼす。おもんばかり合う人々が形成する社会の方が、国家や権力の「見える手」がしゃしゃり出て方向づけようとする社会よりも、はるかにまともな社会になると。