残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

戦争から学ばない国

2冊の本を読んで、「敵基地攻撃能力保有 自公合意」という最近の政治を考えています。
1冊は、野口悠紀雄さんの「戦後経済史」。もう1冊は福島淑彦さんの「スウェーデンのフェアと幸福」です。

野口さんは、プロローグ「私は3月10日を生き延びた」で、次のように書いています。
私たち5人の家族(私、母、祖母、姉、妹)は、近くの小学校の地下防空壕に向かって逃げました。全員が防空頭巾をかぶり、幼かった妹をうば車に乗せ、途中でお地蔵様の前を、本当に転がるように走り抜けた記憶があります。そして、まったくの偶然によって生き延びたのです。
私たちと同じ防空壕に逃げ込んだ人々の大部分は、窒息死しました。多くの人が長時間、鉄の扉を閉めた状態の狭い空間に閉じ込められていたため、壕内の酸素が欠乏し、奥にいた人から順に死んでいったのです。私たちの家族はたまたま入口近くにいたため、扉の隙間からわずかに流れ込んでくる空気で、窒息死を免れました。・・・
日本国民は、防空壕で窒息する危険について、何の知識も持っていなかったからです。
後になって知ったことですが、ドイツでは、「防空壕に退避した場合、最も危険なのは窒息」と国民に教育していました。そして、3つの小さなヒンデンブルク灯に点火し、一つを頭の高さ、一つを腰の高さ、もう一つを床の上に置き、もし一番上の明かり消えれば、排気ポンプを動かしました。あるいは、床の灯が消えたら立ち上がり、腰の位置の灯が消えたら子供を持ち上げ、頭の位置の灯が消えたら、外がどんな猛火でも防空壕から出よ、と指導されていました。・・・


福島さんは、「有事に対するリスク管理」で、次のように書いています。
スウェーデンは1815年のナポレオン戦争終結後、武装中立政策を貫き、今日まで200年以上も他国と戦争をしてこなかった。だからと言って、スウェーデン人の戦争をはじめとする有事に対する危機意識が低いというわけではない。・・・
2018年5月にスウェーデンの全世帯に配布された「危機や戦争の備えに関する手引き書」であろう。「危機や戦争の備えに関する手引き書」は20ページにもなる冊子で、戦争やテロが発生した場合の避難方法、食料や水の確保・備蓄方法、身の守り方が記されている。また、緊急時のサイレン、空襲時のサイレン、危機が過ぎ去ったことを示すサイレンの鳴り方がどのように違うのかも説明されている。・・・
スウェーデン国内に多数存在する避難用シェルター、いわゆる核シェルターが、スウェーデン人の有事に対する備えの意識の高さを示している。避難用シェルターは第二次世界大戦後の冷戦時代に建設され始めた。MSBによれば、現在、スウェーデンには6万5000の避難用シェルターがあり、約700万人が収容可能とのことである。避難用シェルターは核爆弾だけではなく、生物兵器、一般的な戦争から人々を守るように設計されている。大型の建物には避難用シェルターを設置することが義務付けられており、建築基準法で発電機、浄水装置、トイレなどに関して細かく規定されている。・・・
しかし、スウェーデンの現在の人口は約1000万人なので、約300万人分の避難スペースが不足していることになる。そのため、スウェーデン政府は避難用シェルターを現在の2倍にすることを計画している。この背景には、2014年のクリミア侵攻に始まるロシアのウクライナへの拡大行動が大きく影響している。

福島さんが、結論を出してくれている。
北朝鮮から頻繁にミサイルが発射され日本近海に落下したり、日本列島上空を通過し太平洋に落下したりしているにもかかわらず、日本政府はミサイルが日本国内に撃ち込まれた際に国民はどう行動すべきかについて全く国民に説明していない。北朝鮮からミサイルが発射される度に日本政府は「北朝鮮に厳重に抗議する」と政府声明を出すだけである。日本政府は有事に際しての明確な危機管理体制を構築しているとは思えない状況である。また、国民の側からも朝鮮のミサイルから身を守るために事前になにかすべきだという議論や行動も起こっていない。

また、野口さんに戻ると、次のように書いています。
3月10日の経験は、「国家」というものに対する、私の不信の原点になっています。究極の危機が降りかかってきたのに、何の助けにもなってくれなかった。それどころか、危機であることを伝えてすらくれなかった、という不信です。・・・
日本は、ドイツが降伏した1945年5月8日以降も戦争を継続しました。いったいなぜだったのでしょう? せめて6月に終戦になったいれば、多くの日本人の運命は、劇的変わっていたはずです。
これは私が戦後ずっと抱き続けてきた疑問です。この間の事情は、最近になってようやく分かってきました。降伏の遅れは、指導者の誰もが責任を取りたくなかったために、決定が引き延ばされ続けただけのことです。・・・
半藤一利ソ連満州に侵攻した夏』は次のように述べています。
「敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘員の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必死に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。(中略)本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、避難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。『やむをえん、轢き殺して前進せよ』」