残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

木村緑平さんの俳句観

瓜生敏一さんの「妙好俳人緑平さん」昭和48年、春陽堂書店に、今一番関心のある「木村緑平」さんの本があります。
この本について、著者は「私は、本書で、緑平さんがどんな生涯をたどったかを、周辺の人々にも照明をあてながら、出来るだけ客観的に時代を追って描き出したいと思っている。いわば、緑平さんの作品論や人間論の土台ともなるべきものを書いて見たいと思っているわけである」と言っている。

その中に、緑平さんの「俳句観」の項目があります。そこでは、次のように書かれています。

緑平さんが「層雲」に入門したのは大正3年のこと、それ以来、昭和43年1月14日、81歳で没するまで、53年間、緑平さんは倦まずたゆまず、こつこつと層雲自由律の一筋を歩みつづけてきたのであった。
一口に53年間というが、これはとてもけわしい長い道でもあった。
こうしたけわしい長い道は、生やさしいことでは歩みつづけられるものではない。
そのかげには、異常なまでの熱意と血のにじむような努力が秘められていたことを忘れてはなるまい。
一体、緑平さんは、俳句に対してどんな考えを抱いていたのであろうか。
そのような熱意と努力を持続出来たということも、俳句に対する考え方に負うところ大きいものがあったであろう。
緑平さんは、滅多に自己主張めいたことを発表しない人であるが、遺稿となってしまった日記の中では、うれしいことであれ、悲しいことであれ、つらいことであれ、他人の批評であれ、自己の意見であれ、思うがままに自己を語って余すところがない。
そこには人間緑平の裸の姿があり、裸の声がある。
そうして日記の中から、俳句に対する考えを述べたものを少し抄出して見ることにする。

山頭火は「うまい」句と「よい」句に就いて語っているが、今層雲の句を見て余りにも「うまい」句が多すぎる様な気がする。山頭火を真似る訳ではないが一句でもよいから私は「よい」句を作りたいものだ。

〇私は句を作るとき靴の文化的であるより原始的な、そして素朴な下駄である様に望んでいる。絹布の華奢であるより木綿の質素が望ましい。洋食の濃厚さより日本料理の淡白さでありたい。沢庵の味こそ私の句でなければならぬ、茶漬飯に沢庵の様な句を作りたいものだ、然しまだまだ。

〇今の私を救ってくれるものといったら俳句であろう、今の私に俳句がなかったら今時分は気が狂っているかも知れぬ。

〇とにかく人の上手な句を見て羨み、うまい句を作ろうとあせっていた私であったが、このごろやっと私らしい平凡な句を作ることが、私にとってはホントウだという事に気付いた。あまり気付き方が遅すぎたが、それでも気付かぬより増しだったかも知れぬ。これからは空気の様な句、水の様な句を作る事に専念しよう。

〇夏に弱い私は連日の暑さと年のセイで愈々弱くなった。暑さの方はやがて立秋と共に解消されるだろうが、年の方は、もうどうする事も出来ない。今、私には一つの願いがある。それは長生きでもなければ、金でもない。生命を打ち込んだ一句を得る事である。あの無心な蝉の叫びのような一句が得られないものか?

〇私は俳句を作る心得として、玄人になるより、いつも素人である様に心掛けている。そして上手な空虚な句より下手な真実な句を作りたい。

〇生涯をかける~何一つこの年まで出来なかった私にも、生涯をかける事がないでもない。それは句である。それも世の中のためというのではない、ただ私一人が生きてゆくためである。醜いながら自分自身の像を彫刻するためである。それでよかろう!

〇俳句~なんでもないものに美しさを見出すのが俳句じゃあるまいか、そんな句を創りたいものだ。