残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

俳壇あって俳句なし

荻原井泉水著「俳句教程」昭和11年、「何の為に~道としての俳句~」「最後に~三自一体~」より。

私自身がいわゆる「俳壇」ということにはさっぱり興味をもっていない、関心をもっていない。
また、それで少しも差し支えはない。
私の手元へは、毎月いろいろの俳句雑誌などを寄贈してよこされるが、封を切ったこともない。
読む価値のあるもののほとんど一冊もないことは解りきっている。
たまに開いて見れば、「今ごろまだこんなことを云っているのか」と思って、そのくだらなさに憂鬱になるにきまっている。

ほんとうに俳句を求めようという人は、自分独りでよろしい。
しんじつ好き友があればそれに越したことはないけれども、たとえ友なしとも、俳句を求める上に少しもさびしいことはないのだ。

ただ、何のために俳句を求めるのか~この心持ちをしっかりと握っていることが大切だ。

芭蕉は、自然にかえり、自然に従った生活をするという気持ちから、家を持たず、財を持たず、ただ天地を住まいとして、水の如く雲の如き生活をしたのであった。
それも、真実なる生活方法には違いない。
だが、芭蕉のようにしなければ、自然に還れないものか~そうではないと私は思うのだ~人間の道というものは、極めて平凡なところにある。
家を持ち妻をもち、うまいものはうまいと思って食べ、寒い時は寒いと思う。
いわゆる、「雪のふる日は寒くこそあれ」だ。
その間に、自然がある。
禅でも、「平常心是道」というではないか。
あたりまえの、ふだんの気持ちの中にあるものがほんとうの道なのだ。
もちろん、芭蕉の行跡は芭蕉という人としてはよろしい。
さりとて、皆が皆、芭蕉の真似をしてはいけない。
昔の俳人には、ずいぶんとそれが多かった。
封建時代の昔としては芭蕉的な気持ちになり、芭蕉的な態度になることもうなづかれる。
今の代は違う。
私たちは、風流人を気取ってはいけない。
私たちは凡俗の人間として生きてゆく方が本当なのだ。
その凡俗の中にまことの道を求めてゆくべきだ。
要するに、昔の聖者がしたように「自分」を捨てるのではない、その「自分」を生かすのだ。
「自分」をほんものの自分となるように磨きあげてゆくことだ。
それこそ新しい意味における、「造化に従ひ造化にかへれ」なのだ。
自然を鏡としたる自分を造ってゆくことなのだ。
ここに私は道として新しい俳句の道を認めるのだ。