残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

一茶と子規

荻原井泉水さんの「芭蕉と一茶」昭和8年8月に、「一茶と子規」という節がある。

「一茶と子規とは、その外観から見ると甚だしく距離があるようにみえるが、この二人が持っていた内部的な要求や、作品の必然性ということを探求して見ると、一茶と子規との芸術的生命には、たしかに、ある脈通した傾動のあることが解るのである」としている。

ちょっとだけ抜粋してみると・・・

「風雅」という観念を広い意味に解すれば、子規の主唱したところの「新派俳句」の道もまた必つの「風雅」である。
子規はこれを「美」もしくは「趣味」というごとき名辞をもって呼んではいたが、自然の美を見出し、世相の趣味を感ずるという事は芭蕉のいわゆる風雅の本質に外ならない。
しかしながら、狭い意味の風雅という観念から見ると、子規の目指すところは風雅否定であるかとさえ思われる。
狭い意味の風雅においては自然の美しいもの(美しいものと伝承的に確認せられたもの~月、雪、鼻、時鳥、紅葉等)に対して、常に愛恋をいだき、その思慕のためには清い殉情を持っているべきであるとする。
世間的の世智分別にわたってはならないとする、なまなましい感情を露出してはならないとする、すべておっとりと、行い澄ましたような、何事にでも傍観的で停徊的で、ひどく余裕のある態度をもっている自分を自分で肯定したような心持をいわゆる風雅ともまた風流とも云うのである。
すなわち回避的であり、隠遁的であり、一口に云えば、非現実的である。
現実の世界に生きていながらそれを非現実的に眺めてゆこうというのである。
ここに、風雅主義の悪くおさまった態度がある。
そういう態度における虚偽を子規はツキナミと名づけてこれを排斥した。
現実の世界に生きている自分たちはこの現実の世界から美を求めなければならない、いや、現実は現実のままであればこそ美である、それをそのまま詠えばいい、と、ここに子規の現実主義が立てられた。
されば子規の目指すところは狭い意味における風雅を否定することであった。
古い風雅の理想を破壊することであった。

そこで、次に私が云おうする所は、この子規の新派俳句の運動と同じ意義のことを、それより百年も以前に、一茶が試みているということである。
一茶は子規のように、俳論などは書かない、もちろん、芭蕉に対する反抗などはなさない。
一茶はひたすら黙って句作していた、自分を芭蕉の流れにおける末弟と考えていたからでもあろう。
けれども、一茶の句境や句ぶりを見ると、彼は決して芭蕉の模倣者ではない、芭蕉の句境を理想として、そこに向かって精進しようと考えていた人ではない、芭蕉の風雅を風雅として、いわゆる風雅ぶろうとした人ではない。
一茶はただ、自分の云おうと思った事を詠ったのである。
それが風雅であろうが、なかろうが、ただそう感じたままを詠ったのである。
そこに風雅の「理想」というものを持っている人ならば、こんなことは句にならぬ、こういうことは拙いちいう風に自ら取捨工夫をして、その実は悪く気取って、風雅ぶった一つの穴に自分を追い落してゆくのであるが、そんなことに頓着のない一茶は、ただただありのままの自分の感情を、あけすけに投げ出していた。
さりとて口から出まかせではない、一茶には別に一茶の工夫があって、作っていることはもちろんであるが・・・

ある「理想」「概念」を重しとせず、否、むしろこれを排除して、「現実」「ありのまま」を尊しとする、「見たまま」「感じたまま」をそのまま率直に、平明に、無技巧に、詠って行こうという行き方、これこそいわゆる「写生主義」である。
「写生主義」という言葉は子規が名づけてその新派俳句の運動の旗幟としたところのものだが、一茶の俳句を見ると、一茶は子規よりもはるか以前にしでにこの写生主義の句を作っている。

子規は匠気の多い蕪村から多くの影響を受けたために、句の佳悪という事については、一茶の如く無神経ではない。
しかし、芭蕉の如き、また蕪村の如き、一句に対する「こり」を強くもってはいなかった。
句作に心を凝らす風の行き方では、とても子規のような多作はできない、子規が句作の心持ちを云えば、自然の中に、広く、軽く、自由に自分の心を遊ばして、その心に映る所の種々の相と種々のリズムをもって、多面的にその自然を詠い生かそうとする。
さればその一句一句の成品としての価値よりも、そのように心を遊ばすこと、その自由さという事に作家としての新しい喜びを見出そうというのである。
だから、子規の句についても、一題十数句を羅列しても、芭蕉のただ一句に及ばないではないかという風な非難は当たらない、芭蕉とても作品そのものよりも、その作品を産む心持ちを貴しとしたのである、一茶においても子規においてもまたそうである。
ところで、ちょっと反語的に聞こえようが、作品を産む心持ちの好し悪しは、佳い作品を産む可能性の多いか少ないかに比例する。
芭蕉のごとくに凝りに凝って押してゆくと、句作というものがついには、きわめて窮屈になって、ああでもない、こうでもないという風に、委縮してしまわねばならなくなる。
ことに新しい生命の味のあるものはこれでは全く求め得られないことになる。
で、新しい佳い作を求めるためには、句作の態度というものをずっと自由にして、余りに凝ることがなく、むしろ大胆すぎるという程に、ずかずかとした試みを許さなくてはならない。
そういう試みの道を開くものが誰か出て来なければならない。
それを始めて試みたものは一茶である。
しかし、一茶はそれを無意識に、また無頓着に考えて、ただ自分としてそういう傾向をとっただけである。
だから一茶からは何らの運動としては起こらない。
子規は、このことを意識的に企図し、熱情的に乗りかかり、俳句史上に一つの新機運を巻起そうという努力を以て、評論に、製作に、また宣伝にと組織的に着手したのである。
さればこそ、明治の俳句界というものに一つの革新をもたらしたのだが、この運動の予言はすでに一茶にあったのである。

一茶の句

陽炎や蕎麦屋の前の箸の山
山里も銭湯わきて春の雨
掃溜の赤元結や春の雨
横乗の馬かすむや夕ひばり
短夜や赤い花さく蔓の先
川狩や地蔵の膝の小脇差
葭切や一本竹のてんぺんに
ねむ咲くや七つ下りの茶菓子売
朝寒や垣の茶笊の影法師
鬼灯や七つ位の小巡礼
霜枯や胡粉のはげし土団子

子規の句

春雨や追込籠に黄なる鳥
風呂の蓋とるやポツポツ春の雨
春風にこぼれて赤し歯磨粉
五月雨や棚へとりつく物の蔓
蝉なくや行水時の豆腐うり
鵙なくや一番高い木のさきに
冬されや狐もくはぬ小豆めし
蝶とぶや巡礼の子のおくれがち
門前に舟つなぎけり蓼の花
朝寒や三井の二王に日のあたる
山吹や人形かはく一むしろ