残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

季題と季語について

俳句では、「季題」「季語」を詠むことが主となります。または、季語を入れることが
俳句であるということになります。

しかし、自由律俳句の泰斗・井泉水の「俳句教程」昭和11年の「季題」について次のように書いています。

「季題」というものの正体はこれでほぼ理解されたことと思う。
そこで、はじめに話した「らしさ」と「自分」ということを思い出してもらいたい。
「季題」によって季題趣味的に作った句というものは、一見いかにも「俳句らしき」俳句ではあり得る。
「俳句らしき」俳句を作るには、これに限る。
だが、そこに「自分」とうものが何パーセント含まれていることだろうか。
この比率は一句一句によって違うけれども、中には「季題」の趣味を尊重するあまり、「自分」が0%になっている作も世間には甚だ多いのだ。
いや、新聞雑誌の募集俳句などにある句は、たいがい、そうだと云っても過言ではあるまい。

そこで問題は簡単だ。
「趣味」よりも「実感」の方が重いのだ。
「題詠」というものはよろしくない。
「写生」から出発して、それを押し通すがいい。――という前々から話した建前からすれば、「季題」というものは、かくべつ尊重する必要のないものだということになる。

「何々歳時記」などいうものは、所持している必要はない。
「歳時記」から出発するのが、間違いのもとだ。
当今、多く出版されている「歳時記」には説明の後に、例句というものが添えてあるのが多い。
その題についての説明を知ってその「趣味」を「概念」的に理解した上に、その例句を「見本」位でなく、立派な「手本」だと信じて、模倣する。
現今、大抵の人はこの手の作り方を唯一の句作捷径(近道)と考えているらしいが、これ程、馬鹿馬鹿しい~これでなくては選者はだまされないのだろうが、実は自分の実感を自分でだましている~方法はないのだ。

「季題」分類にした「何々一万句集」とか何とか云う類の本も、軽蔑してかかるべし。
手に触れる要更になし。

「季題」という代わりに「季語」という人もある。
題という古い観念の気兼ねしていう訳だが、その精神はやはり題詠的なのだから、名だけ新しくしたところで同じことだ。