残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

山頭火の句集「雑草風景」と「鴉」

急に山頭火に会いたくなって、荻原井泉水・伊藤寛吾編「山頭火を語る」を読んでみました。
井泉水が「歩くもの~山頭火句集『鉢の子』選後~」で、表題通り、「鉢の子」の句について説明を加えているのも興味深かったが、それより、今回は井手逸郎の「緑平と山頭火」に興味を持ちました。
その中で、井手氏は山頭火の句集「鴉」(第七句集)と「雑草風景」(第四句集)を評価している。

第七句集「鴉」については、次のように書いている。

山頭火の第七句集「鴉」は、一句一句おさへつけるような思い句風だ。
緑平の句とうらおもてになると、どちらが便乗しているのか疑わしい。
山頭火は何としても緑平に対して強い性格だと思う。
山頭火は剛球一点ばりで、単純にいえば単純、緑平はあくまで軽妙な曲球、打者を悩ますことに変りない。
層雲人で、放哉は剛球に非ず、裸木は一球一球慎重、北朗はドロップ、結局山頭火が一番剛球ということになる。
剛球投手がやはり何といっても第一投手だ。
たとえ乱打されても、しかし今の山頭火位の重みになると打っても球は飛ぶまい。
山頭火の珍重なる所以はそこ。

また、第四句集「雑草風景」ついては、次のように書いている。

「風景は風光とならねばならぬ。音が声となり、かたちがすがたとなり、ひほひがかおりとなり、色が光となるように」これが山頭火の俳句観といってよい。
其中庵の雑草風景は即ち山頭火風景である。
雑草を観取して山頭火は存在を肯定する。
「雑草は雑草として生え伸び咲き実りそして枯れてしまえばそれでよろしいのである。」
「或る時は濁り或る時は澄む」~「澄んだり濁ったりする私であるが澄んでも濁っても私にあっては一句一句の身心脱落である。」
こういう俳句悟達の方向にあるのが「雑草風景」である。
自分はこの第四句集が一番興味があり、味があると思う。
第四句集の山頭火は内部生活に頭をつっこんでいるので句姿は弱くなっているようだが、弱いようで強くなっているのがこの頃の山頭火だ。
自分はやはり「雑草風景」の山頭火が一番純粋だと思っている。

以上は、井手逸郎氏の「緑平と山頭火」からの抜粋でした。
私も、「雑草風景」と「鴉」を読んでみました。

「雑草風景」72句より10句を選んでみました。

病めば梅ぼしのあかさ
住みなれて藪椿いつまでも咲き
あるがまま雑草として芽をふく
ぬくうてあるけば椿ぽたぽた
ひとりたがやせばうたふなり
枇杷が枯れて枇杷が生えてひとりぐらし
照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいっぴき
炎天の稗をぬく
おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら
傷は癒えゆく秋めいた風となって吹く

次に、「鴉」72句より13句を選んでみました。

へそが汗ためている
降りそうなおとなりも大根蒔いている
焼いてしまえばこれだけの灰を風吹く
秋もをはりの蝿となりはひあるく
握りしめる手に手のあかぎれ
机上一りんおもむろにひらく
旅もいつしかおたまじゃくしが泳いでいる
はるばるたづね来て岩鼻一人
まがると風が海ちかい豌豆畑
水たたへたればおよぐ蟇
ながれがここでおちあふ音の山ざくら
しみじみしづかな机の塵
炎天のレールまつすぐ

どちらの句集も72句、10分か15分で読める量です。