残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

小倉一郎さんの「俳句入門」

小倉一郎さんの「俳句入門~ゆるりとたのしむ」2020年2月、日本実業出版社という本があります。
俳優の小倉さんは1951年生まれ、俳句歴は20年以上、俳号は蒼蛙(「あおがえる」ではなく、「そうあ」と読みます)とのことです。

その中の「不安や悩みも吹き飛ぶ~心のままに詠むクスリ~」で、次のように書かれています。

俳人高浜虚子は「俳句は極楽の文学だ」と言っています。たとえ、辛い思いをしたり、悲しいことがあっても、句作をしていれば気持ちが楽になるのです。
わたし自身の経験があります。若いころ、自然気胸で肺が四回も破れて、とうとう入院して手術することになりました。将来のことなどいろいろと悩みました。ですが、そんな不安も俳句を考えるときはどこかに吹き飛んだ。入院している間、毎日俳句を作りました。いえ、自然に浮かんでくるのです。こういうのを、わたしは「賜った句」と呼んでいます。神様がくださった句。いまはこの経験に感謝しています。

点滴のまた膨らんで秋の夜半
傷口がいたいぞなもし鳥曇
点滴の膨らむ膨らむ春陽受け

また、「あなたの『生きた証』になる~忘れがたい大切な句~」では、次のように。

俳句を始めて二十年以上になります。これまでに三冊の句集を出しました。その中には、離婚をしたとき、子どもが成人し就職したときの句なども出てきます。一冊にまとまったものを眺めていると、自分史のようなものが見えてくるから不思議です。
「そういえば、あのときこんなことがあったな」とか、「この句を詠んだのは、あのときだったのか」などと、俳句がさまざまな記憶を呼び覚ましてくれます。
記憶といえば、わたしには忘れがたい大切な句があります。

ふたつゆくひとつは廻り春日傘  初穂
春草に転びて何も考へず  半兵

これは、わたしの育ての母と伯父の句。(略)
この句は、ずっとわたしの頭から離れませんでした。俳句は、大切な人の、そして、あなた自身の「生きた証」にもなるのです。

あとがき、「俳句は、人生そのもの」では、次のように書かれていました。

半年と言われていた妻の入院生活は、思っていたより早く終えることができました。いまも通院とリハビリは続いていますが、徐々に普段の生活が戻りつつあります。
初めは、簡単な足し算も「あいうえお」も書けなかった妻が元気になってきたことで、わたしにも俳句が戻ってきました。そして、生まれたのがこんな句です。

退院の妻は下戸なり水羊羹
姫女苑妻のあと付く散歩かな
耕運機の動き止めたる溽暑かな
みぎひだり解らぬ妻や梅雨に入る
傍らに無口な妻や夕端居
二人して食後のくすり金魚玉

いいフレーズが浮かんだら、とにかくメモっておく。そうして、あとからぴったりした季語を見つければいいのです。いや、心配しなくても見つかります。そのために、「歳時記」という便利なものがあるのですから。

やはり俳句は、生活の中から出てくるものです。「いのち」とか「生と死」といった切実な思いがアタマから吹けないうちは、俳句を作る気分になれませんでした。日常の暮らしが戻ってきたら、俳句が戻ってきたのです。
たまたま、妻の入院という出来事が起こった。それ自体は悲しいことだし、病気なんかならないほうがいいに決まっているけれど、起こった現実をそのまま受け入れることで、結果として、新たな句を賜ることができた。そんな気がしてなりません。
日々の暮らしの中から浮かんできた、聞こえてきた、見つけた言葉を紡いで一句にする。これは本当に、一生のたのしみになるものです。
読者のみなさんも、どうか俳句を続けていっていただければ、と切に願っています。