残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

「検証ほつまつたゑ」紹介

ヲシテ文献研究同人誌の「検証ほつまつたゑ」にホームページがあります。

平成14年6月から隔月発行されているものが、準会員(年間使用料3千円)で、パックナンバーがすべて閲覧できます。

会員資格(使用料)が4月から1年なのか、加入日からなのかの確認は忘れました。

私も昨年12月に加入して、先日、「ホツマ出版会 宝蔵文庫」「有料会員登録完了のお知らせ」が届き、早速、平成14年6月の発刊号(第1号)を閲覧しました。

ホツマツタヱ概要」(中川幸三)、「ホツマツタヱ真書の証明」(草間ヒラク)、「ホツマツタヱの暦の考察」(吉田六雄)などを読ませていただきました。

以前、このブログで書いた松本善之助さんが発刊されていた「月刊ほつま」平成6年9月終刊を継いだものです。

これからは、萬葉集と一緒に、ホツマツタヱも一緒に勉強していきます。

hotumatutaye.com

百間川のカイツブリ

大寒の1月21日の午後、百間川の神下橋付近で、一羽のカイツブリに出会いました。岸辺から遠かったので、望遠で撮ったのですが、何の鳥かわからなくて、写真をグーグルカメラで、「冠カイツブリ」だそうです。

今回はじめて、youtubeから動画の埋め込みをやってみました。

本当は、動画ソフトで動画を作成したかったのですが、網膜剥離緑内障の影響で左目の視野が悪くなっているので、なるべく目に負担がかからない方法はないものかと考えて、ブログにそのまま動画を貼り付けてみました。

これが趣味にできればを、「百間川と操山と私」をもう一回、継続していければと思っています。

youtu.be

古典文法の助動詞は、意味・活用・接続

古文は、助動詞に入りました。『古典ちゃんねる』は第10講からです。

ここからは、望月光さんの『古典教室 古典文法編』を中心に読んでいきます。なにしろ、助動詞・助詞は古典文法の重要ポイントで、助動詞は、一に意味、ニに活用、三に接続です。28個の助動詞を一歩一歩進めていきます。

今日は、とりあえず「過去の助動詞 き・けり」までとします。81ページまでを読み返して、ある程度納得できたら、次へ進みます。

今日はいい一日だった

古文とホツマツタヱの勉強を始めました。


古文は、今日は、形容詞と形容動詞をyoutubeの「高ハシ」さんの『古典チャンネル』で学習しています。望月光さんの「古文教室 古典文法編」が超基礎ということなのですが、やはりyoutubeはよくわかります。これと学研の「学習用例 古語辞典」に書き込みしながらやっています。
ゆくゆくは、百人一首から、品詞分解をしながら、読み進めて行こうと希望しています。


記紀原書・日本のバイブルと思っている「ホツマツタヱ」は、これまたyoutuneに「たっしー&ターボ坊」さんの『ホツマツタヱ基礎講座』で学習しています。テキストは池田さんの『記紀原書 ヲシテ 上下巻』で、『検証ほつまつたゑ』の日本語訳を書き写しながら進めています。今日は、2アヤに入る予定です。
ゆくゆくは、岡山で、ホツマツタヱの勉強会を開きたいと願っています。

ホツマツタヘはなぜ地中に隠れたか

『合本ほつま』299ページから、表題の論考を取り上げます。

 

 わが国に仏教が入ってきた時の血なまぐさいばかりの拒絶反応を、日本書紀は審さに記録して後世の我々にみせてくれる。それは欽明、敏達、用明、崇峻各天皇紀をひもとく者の誰もが感ずることであろう。仏教輸入派の蘇我馬子は、皇室をも抱きこみ聖徳太子を手中にし、日本古来の信仰を守ろうとする巨頭物部守屋を屠り去り、更に崇峻天皇殺逆といふ前代未聞の大不兇事をも敢てした。

 だが、このように物議をかもした仏教渡来より一世紀あまり前に、儒教はわが国に入ってきている。この時の日本の接し方はどうだったのだろうか。さぞや強烈な反撥があったと読者は思うだろう。それが意外にも、後にみるように日本書紀は元より古事記さへ、何事もなく至極スムースに受け入れてしまったように書かれているのである。これは又どうしたことであろうか。

 本当は、その時こそ仏教渡来の時よりも幾層倍かの深刻な軋轢があり、もっと血なまぐさい頑強な斗争が繰り拡げられたのではなかったのか。もっといえば、そういう事実があったには関わらず、そのことを記紀は載せなかったのではないか。そんな風にも思えてくる。

 そしてつまる所、儒教が侵入してきた時こそ、逆にホツマツタヘなどの貴書が地下に潜らざるをえなかった時ではないか。またそれは同時に、日本固有の古代文字を使わなくなった時期をも意味するのではないかと考えざるをえなくなったのである。

『萬葉集』の新解釈~日本固有文化への讃美~

『合本ほつま』から、水上雅雄(みつかみ まさを)さんの「『萬葉集』の新解釈~日本固有文化への讃歌~」(928ページ)を取り上げます。

・はじめに

・『萬葉集』成立の謎

・『萬葉集』に詠まれた富士山

・『古今和歌集』以後

・『萬葉集』の主張

・『萬葉集』の題名の意味

・おわりに

 

・はじめに

 『ほつま』によれば、日本固有文化は縄文時代に確立をみた。この文化は明らかに現在の日本文化と連続性がある。ただし、余りに時間が経過していること、および外来文化が幾重にも押寄せてその姿を変えたことにより、現在では容易に連続性を認めにくくなってしまった。『萬葉集』はこの連続性を認識するのに、格好の文献と考えられる。今回、『萬葉集』の新しい解釈を試みて、この文献の位置づけをはっきりさせたい。併せて、その後の勅撰和歌集である『古今和歌集』と『新古今和歌集』を取り上げて、同じ態度でこれらの文献をも吟味してみたい。

 

・『萬葉集』成立の謎

 20巻の『萬葉集』は、それがまとまる前に、いくつかの歌集がすでに成立していたとされる。それは、『古歌集』、『柿本朝臣人麿歌集』、『山上憶良編の類聚歌林』、『笠朝臣金村歌集』、『高橋連虫麿歌集』、『田辺福麿歌集』の六集であり、『萬葉集』の編者はそうした歌集の類を参考にして、編纂にあたったと思われている。

 成立の時期は『古事記』が712年、『日本書紀』が720年、『萬葉集』が759年である。つまり『萬葉集』は主に、これ以前の約130間の歌を収録しているのである。したがって『萬葉集』は記紀とほとんど同じ時期に成立したとみなしてよい。

 ところで『萬葉集』の一巻、二巻は二十巻のなかでも、きわめて特殊な性格を持っている。記紀の記述が歴代順になっているのと同じなのだ。編者は記紀の編纂様式にならって、巻一・巻二を古今の歌の撰集とした。すなわち、『萬葉集』は記紀の存在を強く意識して編まれた歌集とみなせる。しかし学界では『萬葉集』なる名前が何を意味するのか、また正式にこれをどう読むのかすら正確にわかっていない。どういう目的で編まれたかなどの定説はまだうちたてられずにいる。

 ワカ(和歌)は日本の伝統芸術であり、萬葉の時代より遥か以前から、すでに、国家の最高レベルで重く扱われていたのだ。萬葉の時代には、すでに仏教や儒教、さらに律令制度などの種々の中国文化が外来文化として我が国に導入され、華やかな文化を築きつつあった。しかし、『萬葉集』には貴族・僧侶らの巨大仏を讃える歌等は一首も載せられていない。

 また一方、大化改新は645年~650年に蘇我大臣家の入鹿等の討伐を契機として、中大兄皇子中臣鎌足等を中心に断行された律令制確立のための中央集権的政治改革でもある。『萬葉集』は、そこに編まれた歌に対する編者の扱い方から、この大化改新との関係が深く密なことを指摘できる。

 

・『萬葉集』に詠まれた冨士山

 記紀には土台の富士山のことが何も書かれていないことを述べた。ところが、同じ時代に編まれた『萬葉集』にはいくつかの富士山のことを詠んだ歌が見出だされる。記紀に富士山の記述がなく、『萬葉集』にあることの不自然さは、今まで誰も指摘していない。しかも『萬葉集』は隠された神代の富士山の歴史を意識しているらしくみられるだけに、これは重要な視点と考えたい。

 山部赤人という伝統派・良識派からみると、『古事記』『日本書紀』の歴史書から、何等かの目的をもって、富士山にまつわる大切な古代の歴史が意図的に削除されていることに、危惧の念を禁じえなかったのではないか。これにより、日本の心が失われてしまうのをおそれ、日本の将来を案じて何等かの主張をしようとしたと思われる。富士山にまつわる古代の歴史を、意図的に削除したその当時の政治権力からみると、この歌は明らかに反逆の内容を含んでいる。すなわち、記紀から意図的に削除したと考えられる富士山を、この長歌では逆に讃美し、その神代からの大切な伝へを忘れずに、代々語り継いでいかなければならないと主張しているのだから。

 天地の 分かれし時ゆ 

 神さびて 高く貴き

 駿河なる 布士の高嶺を

 天の原 振り放け見れば

 渡る日の 影も隠らひ

 照る月も 光も見えず

 白雲も い行きはばかり

 時じくそ 雪は降りける

 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ

 不盡の高嶺は

  反歌

 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ

 不盡の高嶺に雪は降りける

 

 この歌の作者の主張は、控え目な表現を用いてはいるが長歌のなかにある。反歌は富士山の自然を静かに詠んだだけなのだ。時の権力者の目をそらすためとも思える。萬葉の時代に主流となりつつあった外来文化に対して、従来の日本固有文化にとってかわるべき正当性を認めない態度なのだ。それだけに、この歌のすごさ、作者の秘めたる強さと意気込み、さらに愛国心がひしひしと伝わってくる。『萬葉集』の編者の強い意志が理解できるともいえる。

 我が国の和歌の伝統は『萬葉集』以降にも受継がれたと予想される。いま『萬葉集

古今集』『新古今集』等の和歌集が、なぜ、飛鳥・奈良・平安・鎌倉の時代に次々と編まれたかを、相互に関連づけて考えるべきではなかろうか。これらを、歴史的に関連づけて、その編纂の動機を捉えようとするのが妥当な方法のように私には思える。

ワカの本質に迫る~日本のこころ・素直さ~

『合本ほつま』から、水上雅雄(みつかみ まさを)さんの「ワカの本質に迫る~日本のこころ・素直さ~」を取り上げます。

・はじめに

・佐々木信綱の和歌論

・『ホツマ』の歌論

・歌の道

・素直な心

・祖先の祈り

・おわりに

 

 『ホツマ』は景行天皇55年(西暦125年)にオオタタネコの命が景行天皇に奉呈した長歌形式一万行の日本国の歴史書である。全40アヤ(章)からなるが、1アヤから28アヤまでは、神武天皇(紀元前659年~581年)の右の臣クシミカタマの命が太古から伝わる各種のフミを元にして執筆し、ゆかりの神社に残しておいたものである。当時の国家第一の文書である『ホツマ』の冒頭に和歌の記述を配したことに注目したい。

 このアヤの最後のところでワカ(和歌)の理論が出てくる。ワカ(和歌)を五七調に綴るのは何故かとのソサノヲの命の質問に対してワカ姫は「天地(あわ)の節(ふし)」と答えている。この天地(あわ)とは天地(あわ)の歌(うた)をさす。

 『ホツマ』において天地の歌は日本思想の根幹をなす深遠な思想を含んでいる。1アヤ2ページの固有文字の五七調四十八文字が天地の歌である。

 次に、ワカ姫がソサノヲの命の質問に対してワカ(和歌)祓いの歌が32文字なのに、ワカの歌(和歌)が31文字なのは何故かを聞かれた論を述べるくだりになる。(1アヤ17ページ)

 

・『ホツマ』の歌論

  天の運行は1年が365日で一巡りします。1年を4分し、さらに3分即ち12分すると31日になります。月の運行は30日足らずです。本当は1箇月を31日とします。したがって通常、歌は31文字です。しかし天の運行は後先がかかわって32日になる時があるかもしれません。こういうみだれた時を窺っていて、災難が発生します。これを祓うのは歌の声が余る32文字でなくてはいけません。敷島の大和の国に生れた男子は31日目に忌があけます。女子は32日目です。このように歌の文字の数によって宇宙に応えるのです。大和の国は天の法則に護られており、アワの歌はこれに応えるものです。このようなわけで大和の国はアワの道が一番大切にされるのです。

 これで、和歌が古代日本で国家的に最も重要視された理由がわかる気がする。和歌が宇宙と一体である視点が注目される。

 

・歌の道

 古代日本において「歌の道」は「禊の道」と対をなす行(ぎょう)であり、本来、神道における最重要事項であった。古代神道において、ワカ(和歌)が身を清めるための禊に対応して、心を清めるための道であったなど今では誰も知らない。

 さらに枕詞について重要な記述が『ホツマ』にはあった。国の体裁が整わない前の苦労はマクラコトバの中に歌を引出す種の言葉として残した。

 5アヤの14ページは次のような内容である。

 イサナギの命が禊をし、身を清めることにより国民の暮らしは安定し、マトの教えもますます徹底されモラルも向上した。葦を抜いて田とした多くの村はお米が豊作となった。マトの教えによりアワ国は国の体裁が出来上がった。このイサナギの命が国造りの基礎を築いた。その業績を伝える歌の道にも理解を深めよ。

 国の体裁が整わない前の苦労はマクラコトバの中に歌を引出す種の言葉として残した。たとえば「あしひき」は山にかかるマクラコトバである。同様に、「ほのほの」は明け、「ぬばたま」は夜、「シマツ鳥」は鵜、「沖つ鳥」は鴨および船にかかるマクラコトバである。このアチ(天の霊力、言霊)を夜の枕とすれば、目覚めたとき歌の道を理解できる。また前言葉としてのマクラコトバも理解できる。心を清めるのが歌の道である。

 

・素直な心

 昔から日本では「働かざる者食うべからず」が社会通念になっている。その厳しい掟は古代から確立していたのだ。(13アヤ25ページ)

 欲望からのがれるのは、物を無駄にせず又集め過ぎず、ほどほどの術を身に付けることだ。宝を蔵に満たしても、それは塵や芥のごとく何の役にも立たない。それよりは、心の素直な人がみつかったら、わが子のように取り立てて、愛情をもって皆をそだて欲をすてる方が役立つ。(13アヤ25ページ)

 クニトコタチの命は日本国の初代の神である。更に『ホツマ』の古代暦の記述をもとにして、この時代が今から約3千7百年くらい前と推定される。このような昔、日本には争いなど無かったというのだ。まだ人口が少なく食糧その他一人あたりでは豊かだったと思われる。本来、日本人は素直な性格なのだろう。矛のような武器はいっさい無くて国が治まっていたというのだ。(23アヤ2ページ)

 

・おわりに

 歌の道が心を清める行としての道であり、身を清める禊の道と並んで古代神道の重要な理念であったなど、『ホツマ』からしか窺いしれない。和歌が古代日本において非常に重要視された理由はほぼ理解できたように思う。

 また、素直さが古代日本の国家理念にまでなっていることを知ったのは大きな収穫である。古代人は素直さを守れば全てが旨く進むと考えていた。これは素朴に見えて意外と強力なパワーを発揮できるように思う。