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そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

『萬葉集』の新解釈~日本固有文化への讃美~

『合本ほつま』から、水上雅雄(みつかみ まさを)さんの「『萬葉集』の新解釈~日本固有文化への讃歌~」(928ページ)を取り上げます。

・はじめに

・『萬葉集』成立の謎

・『萬葉集』に詠まれた富士山

・『古今和歌集』以後

・『萬葉集』の主張

・『萬葉集』の題名の意味

・おわりに

 

・はじめに

 『ほつま』によれば、日本固有文化は縄文時代に確立をみた。この文化は明らかに現在の日本文化と連続性がある。ただし、余りに時間が経過していること、および外来文化が幾重にも押寄せてその姿を変えたことにより、現在では容易に連続性を認めにくくなってしまった。『萬葉集』はこの連続性を認識するのに、格好の文献と考えられる。今回、『萬葉集』の新しい解釈を試みて、この文献の位置づけをはっきりさせたい。併せて、その後の勅撰和歌集である『古今和歌集』と『新古今和歌集』を取り上げて、同じ態度でこれらの文献をも吟味してみたい。

 

・『萬葉集』成立の謎

 20巻の『萬葉集』は、それがまとまる前に、いくつかの歌集がすでに成立していたとされる。それは、『古歌集』、『柿本朝臣人麿歌集』、『山上憶良編の類聚歌林』、『笠朝臣金村歌集』、『高橋連虫麿歌集』、『田辺福麿歌集』の六集であり、『萬葉集』の編者はそうした歌集の類を参考にして、編纂にあたったと思われている。

 成立の時期は『古事記』が712年、『日本書紀』が720年、『萬葉集』が759年である。つまり『萬葉集』は主に、これ以前の約130間の歌を収録しているのである。したがって『萬葉集』は記紀とほとんど同じ時期に成立したとみなしてよい。

 ところで『萬葉集』の一巻、二巻は二十巻のなかでも、きわめて特殊な性格を持っている。記紀の記述が歴代順になっているのと同じなのだ。編者は記紀の編纂様式にならって、巻一・巻二を古今の歌の撰集とした。すなわち、『萬葉集』は記紀の存在を強く意識して編まれた歌集とみなせる。しかし学界では『萬葉集』なる名前が何を意味するのか、また正式にこれをどう読むのかすら正確にわかっていない。どういう目的で編まれたかなどの定説はまだうちたてられずにいる。

 ワカ(和歌)は日本の伝統芸術であり、萬葉の時代より遥か以前から、すでに、国家の最高レベルで重く扱われていたのだ。萬葉の時代には、すでに仏教や儒教、さらに律令制度などの種々の中国文化が外来文化として我が国に導入され、華やかな文化を築きつつあった。しかし、『萬葉集』には貴族・僧侶らの巨大仏を讃える歌等は一首も載せられていない。

 また一方、大化改新は645年~650年に蘇我大臣家の入鹿等の討伐を契機として、中大兄皇子中臣鎌足等を中心に断行された律令制確立のための中央集権的政治改革でもある。『萬葉集』は、そこに編まれた歌に対する編者の扱い方から、この大化改新との関係が深く密なことを指摘できる。

 

・『萬葉集』に詠まれた冨士山

 記紀には土台の富士山のことが何も書かれていないことを述べた。ところが、同じ時代に編まれた『萬葉集』にはいくつかの富士山のことを詠んだ歌が見出だされる。記紀に富士山の記述がなく、『萬葉集』にあることの不自然さは、今まで誰も指摘していない。しかも『萬葉集』は隠された神代の富士山の歴史を意識しているらしくみられるだけに、これは重要な視点と考えたい。

 山部赤人という伝統派・良識派からみると、『古事記』『日本書紀』の歴史書から、何等かの目的をもって、富士山にまつわる大切な古代の歴史が意図的に削除されていることに、危惧の念を禁じえなかったのではないか。これにより、日本の心が失われてしまうのをおそれ、日本の将来を案じて何等かの主張をしようとしたと思われる。富士山にまつわる古代の歴史を、意図的に削除したその当時の政治権力からみると、この歌は明らかに反逆の内容を含んでいる。すなわち、記紀から意図的に削除したと考えられる富士山を、この長歌では逆に讃美し、その神代からの大切な伝へを忘れずに、代々語り継いでいかなければならないと主張しているのだから。

 天地の 分かれし時ゆ 

 神さびて 高く貴き

 駿河なる 布士の高嶺を

 天の原 振り放け見れば

 渡る日の 影も隠らひ

 照る月も 光も見えず

 白雲も い行きはばかり

 時じくそ 雪は降りける

 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ

 不盡の高嶺は

  反歌

 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ

 不盡の高嶺に雪は降りける

 

 この歌の作者の主張は、控え目な表現を用いてはいるが長歌のなかにある。反歌は富士山の自然を静かに詠んだだけなのだ。時の権力者の目をそらすためとも思える。萬葉の時代に主流となりつつあった外来文化に対して、従来の日本固有文化にとってかわるべき正当性を認めない態度なのだ。それだけに、この歌のすごさ、作者の秘めたる強さと意気込み、さらに愛国心がひしひしと伝わってくる。『萬葉集』の編者の強い意志が理解できるともいえる。

 我が国の和歌の伝統は『萬葉集』以降にも受継がれたと予想される。いま『萬葉集

古今集』『新古今集』等の和歌集が、なぜ、飛鳥・奈良・平安・鎌倉の時代に次々と編まれたかを、相互に関連づけて考えるべきではなかろうか。これらを、歴史的に関連づけて、その編纂の動機を捉えようとするのが妥当な方法のように私には思える。