浜矩子著「小さき者の幸せが守られる経済へ」2019年の続きです。
この本は、アエラとimidas掲載のコラム原稿をまとめたものなので、あまり詳しく紹介するとその本の文章のダイジェストになってしまうため、今回は、私たちが何気なく使っている経済に関する言葉が本当に私たちがイメージしている意味なのかに焦点をあててまとめてみます。
まずは、「経済合理性」という言葉。この言葉は普通、「経済合理性ばかり追求して、原発再稼働したり、大企業を優遇するのはけしからん」というふうに使われます。でも、浜さんはこの使い方には問題があると指摘されます。なぜなら、経済活動は人間の営みであり、人間のためになり、人間を幸せにするのが経済活動だとすると、この使い方はおかしいと思いませんか。なぜなら、人間が人間のために行う営みが、人間を不幸にしたり、人間を危険にさらすというのはおかしな話なわけです。
次は、財政収支のことです。財政収支を考える時、比べるべきは国の税収と歳出です。国の歳入(税収と公債金)と歳出を比べてはいけない、ここを混同しないようにと浜さんは言います。なぜなら、歳出が税収の範囲をはるかに超えている日本政府の姿は、毎月毎月、借金を重ねて生活を維持しているサラリーマンライフのイメージです。問題は、いつまでこの借金依存型人生を続けられるということで、甘えるのもいい加減にしろと言われると万事休すとなってしまいます。
以上が第一章の基礎編で、第二章「経済ニュースを読み解く」と第三章「まともな民主主義を取り戻せ」はその応用編になっています。
それを簡単にまとめると、次のようになります。
厚生労働省はいい加減な数字づくりをする。財務省は記録文書を改ざんする。文部科学省は公立学校の授業に妙な介入の手を伸ばそうとする。そして、それら一連の腐った行政行為の背後に、われわれは腐った政治の影を感じざるをえない。
経済学の生みの親のアダム・スミスがその著書『国富論』の中で、かの「見えざる手」という言葉を使った時、彼は決して新自由主義や市場原理主義の礼賛論を唱えていたわけではない。国家権力がいらざる介入をしなくても、経済活動は収まるところに収まり、生むべき結果を生み出す。政治の「見える手」は、経済の世界にしゃしゃり出るな。これが、経済学の父が言いたかったことであると結んでいる。