残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

憲法を疑う人は何を信じているのか?

木村草太著「憲法学者の思考法」2021年、青土社の紹介です。

この本の中の「憲法を疑う人は何を信じているのか?」に『トミナガの方違え』というフィクションが一番心に残っています。それはこんな話です。

彼は中学二年の頃、少しばかり厄介な精神状態に陥っていた。初めのうちは、「ちょっといろいろあって」と学校をちょくちょく休む程度だった。誰よりも頑丈なやつだったので病気のはずもなく、伏木に思いはしたものの、あまり気に留めなかった。しかし、マラソン大会のコースを左回りにすべきだと、断固とした口調で主張したのには驚いた。例年のコースは右回り。「反抗期もいい加減にしろ」と担任のサカマキ先生は言った。ついでに、クラス委員の私やタナカさんもそう言った。しかし、トミナガは、先生や私たちの言うことにはまったく耳を貸さずに、こう言い放った。

「大会当日は、天一神(てんいちじん)がおられて塞がりが生じます。方違(かたたが)えが必要です」

ここでみんなは、トミナガの欠席理由に合点がいった。トミナガは、耳どころか身も心も平安時代の古典教養に貸し切り状態だったのだ。「伊勢物語」を読み始めたところで止めておくべきだった。「更級日記」を経て、「源氏物語」の世界の住人となった段階では、もう手が付けられない。

木村さんは、この話で次のように言っている。「ともあれ、この話の教訓はこうだ。何かに耳を貸さない態度とは、他の何かに耳も身も心もはまりきっていることの裏返しである」と。ここから、憲法学者のとしての木村さんは、最近の安保法制の審議、「存立危機事態」での武力行使を認める自衛隊法76条の改正に関して述べている。

なぜ、こんなわけの分からない法整備をしようとするのか。これを考えるヒントになるのが、トミナガの方違(かたたが)えだ。トミナガが頑なに左回りを主張したのは、先生やクラスメイトの言葉にまったく耳を貸さない一方で、天一神(てんいちじん)のことは固く信じていたからだ。政権が、憲法学者や歴代法制局長官、そして多くの国民が憲法違反だと言っているのに耳を貸さないのも、法の支配や立憲主義とは違うものを固く信じているからだろう。

では、政権は、「法の支配」や「立憲主義」とは違う何を信じているのだろうか?

政権は今回の安保法制を正当化するため、「民主主義で選ばれた私」、「日米同盟の強化」、「対中抑止力」等のキーワードを繰り返している。安保法制の支持者は、それらをかざせば、国民や国会や裁判所に批判されることはないと踏んでいるふしがある。

納得の結論ですが、かといって、それでいいというわけにはいきませんよね。木村さんは、上記はいずれも説得力はないと言われ、次のようにまとめています。

選挙で選ばれたからといってなんでもやってよいわけではなく、あくまで憲法の範囲内で活動するのが立憲主義の基本だ。日米同盟の強化を本気で考えるなら、日本の存立に関わるときのみの協力なんて、あまりに利己的で無意味だろう。さらに、対中抑止を本気で考えるなら、個別的自衛権のための装備や人員の充実の議論をするなり、外交を強化するなりした方が、よほど有効ではないだろうか。