残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

自由律俳句の歩み

荻原井泉水の句集は2冊、「皆懺悔」と「四海」しか持っていないので、できれば「原泉」「長流」「大江」の三部作が見れないかと思って探していたのですが、なかなか探すことができず、図書館で、「鑑賞現代俳句全集 第3巻 自由律俳句の世界」を借りてきました。井泉水の作品篇(500句)では、「原泉」(大正元年~昭和20年)から320句、「長流」(昭和21年~35年)から86句、「大江」(昭和36年~45年)から64句がありました。他は「四海」(昭和46年~51年)から31句がありました。

現在、私の一番興味のある人は、「井泉水」と「木村緑平」ですが、どちらも抜粋では物足りません。やはり、句集を見たいです。

 

たまたま、その巻に、「鑑賞現代俳句全集 月報Ⅵ」がついており、上田都史(俳人・「海程」同人)さんの「自由律俳句の歩み」がありました。1980年10月、立風書房発行のものなので、もう古本屋でしか手に入らないと思います。それによると・・・

 

明治には俳句の革新が二度あった。その一つは正岡子規のそれ、いま一つは、荻原井泉水・中塚一碧楼の自由律俳句の確立である。明治44年4月、井泉水は「層雲」を創刊、二か月後の6月に一碧楼が「試作」を創刊している。「層雲」は新傾向俳句の中央機関誌という触れ込みで創刊に漕ぎつけたのだが、それは、河東碧梧桐とその勢力圏に対する井泉水の政治的配慮であって、実際には、自由律俳句の機関誌であった。

一碧楼は「試作」創刊の前年「自選俳句」を刊行している。「自選俳句」は、書名が端的に示すように、碧梧桐の斧鉞がその作品に及ぶのを嫌い「自信ある作の前に於て選者の存在は全然無意義也」という考えに立っていた。
碧梧桐は、第二次「三千里」の旅の途上、岡山県玉島の一碧楼の生家へ着き、翌日、沙美に移って玉島俳三昧を修するが、一碧楼はこの会合に参じた塩谷鵜平に「先生が玉島の土地を離れるまで「自選俳句」のことは話さないでほしい」と、耳打ちしている。これは、一碧楼を「天才ある人」として寵遇、世に送ってくれた碧梧桐を謀り欺く行為である。新傾向俳句の中央機関誌を発行したいと、やはり、三千里途上の碧梧桐を訪ねて諒承を得た井泉水も、新傾向の機関誌を出す計画は、初めからなかったのだから、これも詐謀で、已むを得ない転形期の不義というよりほかない。

自由律俳句の歩みは、ここから、井泉水の流れ、一碧楼の流れとして始まった。これまでの俳句は形から教えられた。形の方が先にあった。形式に従って内容を縛るか、内容に従って形式を変えるか。形式のために句作するか、自己のために句作するか。と、井泉水は問いかけ、一碧楼も同じ主意から、私の俳句はいままでのものとは立脚点をまったく異にしている、私は季題趣味というものをなんとも思わないし、17字そこらに纏めようと句作するものではない、と、述べている。

こうして歩きだした自由律俳句は、尖鋭なイデオロギーをスローガンのように書いたプロレタリア俳句や、存在形式と作用形式の智的構成と称する所謂ルビ俳句、あるいは、生活派と称する日常茶飯の雑報俳句なども現れたが、いずれも一過性の現象としてあるものは終息し、あるものは高い詩性に目覚めてよき実りを齎らした。

作品を音数のうえからみると、これも、自然発生的で、定型の側は自由律には何でも彼でも反省せよ、自由律の側も575調17音は、何でも彼でも打ち壊せよ、というサンディカリスム的荒さがあって、長いものは55音、短いものはたった2音というアナーキーな状態を現出した。そこで提唱されたのが上限22音下限12音の「俳句のブラキストン・ライン」であることは周知の通りである。自由律俳句は一つの規矩を持たねばならぬ。

明治の俳句革新を起点に、井泉水・一碧楼によって自由律俳句は興され、井泉水の流れでいえば、野村朱鱗洞・大橋裸木・尾崎放哉・芹田鳳車・栗林一石路・和田光利・種田山頭火・小澤武二・七戸黙徒・海藤抱壺・橋本夢道その他、一碧楼の流れでは、安齋櫻塊子・瀧井孝作・喜谷六花・小澤碧童・遠藤古原草・中塚響也・猪俣鹿語・久米三汀・森楢榮・塩谷鵜平その他。また、別派として荻原羅月の句業もあった。これら、自由律俳句山系の中で、井泉水・一碧楼・放哉・山頭火・夢道などは、現代俳句の脚光を大きく浴びた高峰といわねばならない。

定型俳句の側で新興俳句運動が始まったのは、水原秋櫻子の「自然の真と文芸上の真」という文章以降からだが、吉岡禪寺洞は新興俳句から口語自由律に移り、市川一男・内田南草らと口語俳句協会を創立した。一方、禪寺洞主宰の「天の川」同人、田中波月は主宰誌「しろそう」を「主流」と改題、禪寺洞の口語自由律俳句運動に加わり、没後、嫡子、陽が引き継いだ。

もともと、自由律俳句は人間の尊厳に目覚め、封建制度の緊縛から近代的自我に覚醒する社会的、精神的構造を背景とし、あるいは、宗教への懐疑や反抗から生じる人間志向の虚無、更には、これに対して、再び宗教と己れとの架橋を試みようとするさまざまな精神の疾風怒涛に生まれ、また、その状況が自由律の形式を必要としたもので、放哉・山頭火の作品は、とくに、その実相である心の修羅を感得するのでなければ、安易に韜晦・諦観に短絡することで終わり、放哉・山頭火自由律俳句の妙諦には触れ得ない。

現象の太平楽に安穏をきめ込んだ人間不在の風流韻事の局面では、率直に言えば、自由律俳句は必要ないのである。そのような状態の中で自由律俳句の歩幅は狭く、自由律故の倦惰弛緩は、なまなかな詩才では、なかなかに免れ難い。