残りの日々を楽しく

そろそろ終活の季節になってきました。残りの人生を前向きに生きていきたいと願って名づけました。

萬葉集の解釈、その一

小名木善行さんの『ねずさんの 奇跡の国 日本がわかる万葉集』を読みながら、いままでの萬葉集解釈は何だったのだろうかと思っています。

万葉集は万葉仮名で書かれているので、それを読み下ししながら解釈しているのですが、第一首の大泊瀬稚武天皇雄略天皇)の訳文だけみてみます。

現代語訳はそれぞれ調べてもらうにして、小名木さん以外は似たり寄ったりです。これはどこから来たのかは、不勉強でわかりません。

これを、小名木さんは次のように現代語訳しています。

新鮮な食べ物の入った竹籠を

乳児に乳を飲ませる美しい母に与えよう

永く広く与え続けることを

国の父としての神聖な志にしよう

この岳で

菜や木の実を採取している男子たちよ

家とはくつろぎの名

その名はやさしくとどまるところを告げる

巨大で行き届いた

たくさんの人々が往来する大和の国は

果樹の木でできた片開きの戸に手を添え

私がしっかりと腰を据えて神に祈ろう

主君が素晴らしければ

人口が増えて人手も倍になり

みんなのくつろぐ場所も増えていく

私が神の背に祈りを告げるのは

生活をする男たちや母たちの名です

何やら、現代の政治家に聞かせてあげたい言葉の数々です。

裏金政治家たちや権力闘争にあけくれている方々は、能登半島地震で被災された方々や国民のことを本当に考えているのでしょうか。

それとともに、今までの学者といわれる人々は、どうしてこのような萬葉集の解釈さえできないのでしょうか。

その他、額田王の第八首は「平和な世が崩れていく哀しみの歌」と解釈、同じく額田王の第二十首、第二十一首の解釈といい、どうして今までの学者は天皇や皇族の歌を、恋歌か権力欲の歌、はたまた不倫の歌にしたいのでしょうか。

私も最初は、万葉集の歌は、天皇も庶民も、現代の恋歌か演歌のように思っていましたが、基本のところがどこか間違っているのではと疑ってきました。